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東京高等裁判所 平成6年(う)638号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一二年に処する。

原審における未決勾留日数中三〇〇日を右刑に算入する。

押収してある包丁一丁(当庁平成六年押第二三四号の1)を没収する。

訴訟費用中原審証人春山良子に支給した分は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人山之内三紀子が提出した控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官藤河征夫提出の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

そこで、所論にかんがみ、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討する。

第一  事実誤認の論旨について

一  夏野一男に対する殺意について

論旨は、要するに、原判決は、原判示第一において、夏野一男に対する殺人について、確定的殺意を認定しているが、被告人には、本件犯行現場において生じた偶発的、突発的な殺意しかなかったものであるというのである。

1  原判決挙示の関係各証拠によれば、被告人には夏野一男(以下、夏野という。)に対する確定的殺意を優に認めることができ、原判決の事実認定は正当であり、当審における事実取調べの結果によっても左右されない。その理由は、春山良子(以下春山という。)の供述の信用性に対する判断を除いては、概ね原判決が「争点に対する判断」中「二 殺意の有無について」の項において詳細に説示しているとおりであると認められるが、所論にかんがみ更に説明を加えることとする。

2  関係証拠によれば、以下の事実が認められる。

被告人は、台湾在住の外国人であるが、平成二年三月、当時女優であった春山と結婚した。春山は、平成四年一〇月下旬、三回目の家出をした後来日し、一一月五日、前から度々求婚されていた歯科医師の夏野と結婚した。被告人は、春山を追って、一二月五日来日し、探偵を雇ってその居所を探し、同月一八日夏野歯科にいるらしいとの情報をつかんだ。被告人は、同月二〇日には本件で使用した包丁を購入し、翌二一日探偵の案内で夏野方の所在地を突き止め、二二日には牛刀や侵入用具等多数の物品を購入した。翌二三日夕刻、被告人は、探偵の報告で夏野と春山とが正式に婚姻し、入籍していることを知った。被告人は、レンタカーに包丁や侵入用具等を準備し、途中でスエットスーツに着替えて夏野方に赴き、二四日午前三時頃施錠のされていなかった勝手口から土足のまま侵入し、一階の電話線を切断した後、二階の八畳間寝室で就寝中の夏野に対し、刃体の長さ約一九・三センチメートルの包丁でその左右頚部を切り裂き、胸部、背部等を多数回にわたり突き刺すなどし、その場で同人を右頚動脈切開等により失血死させた。なお、被告人が当時使用していた手帳には、一二月二五日及び二六日の欄に「殺」という字を一旦記入した後、これを消した跡があり、二五日の欄から二四日の欄へ矢印が記入されている。

3  このように、被告人は、予め用意した包丁や侵入用具をレンタカーに積載し、夏野方に赴く途中で動きやすいスエットスーツに着替え、運動靴のまま本件の包丁を携えて夏野方に侵入している。さらに、被告人は就寝中の夏野を襲い、激しい攻撃を加え、多数の創傷を負わせている。夏野の受けた創傷は、首、胸、背中等十数か所に及び、その多くは創洞も深い重篤なものであり、殊に致命傷となった頚部刺創は、頚動脈を半切りにするほどのもので、首の周りが大きく切り裂かれている。胸部の刺創は、心膜、肝臓等を損傷するものである。重大な刺創の割には、胸部、腹部の内部には出血が殆ど見られないことから考えると、被告人は、まず頚部を狙って攻撃を加えたものと認められる。また、後に検討するように、春山の供述については、十分その信用性が認められ、同女の供述によれば、被告人は、春山を寝室に連れ戻した後同女に対し、「相手(夏野)を殺してしまったから、あなたも一緒に殺す。」と申し向けていることが認められる。さらに、前記の手帳の記載について、被告人は帰国の予定日を記入したものであるとか、戸籍を見たときの怒りを晴すためなどと弁解するが、右記載自体から右弁解が信用できないことは明らかであり、右手帳の記載は、被告人が二五日あるいは二六日に殺害の実行を計画したが、これを二四日(本件当日)に変更したものと解することができる。したがって、本件犯行前の被告人の行動及び使用された凶器の形状、攻撃の部位、態様、結果、犯行後の被告人の言動等を総合的に考慮すれば、被告人は、春山が日本人男性と同居していることが明らかになるにつれ、嫉妬心等から殺意を抱き、凶器等を準備していたところ、その日本人男性の名前が分かり、さらには夏野が春山を法律上も入籍させていることを知って、夏野に対する怒りや憎しみが募り、同人を殺害して報復しようと決意したものと認められ、被告人が予め殺害の意図を固め、確定的殺意をもって本件に及んだことは明らかであり、到底犯行現場における偶発的、突発的殺意にとどまるものとは認められない。

4  所論は、(1)被告人には、一二月一八日から二一日にかけては春山が嫉妬の対象となるような男性と同居しているという認識は全くなかった、(2)本件で使用した包丁や針金等は本件で使用するために購入したものではなく、包丁は、春山の姉のAを脅してでも春山の所在を教えてもらおうとして購入したものであり、針金等は、台湾の探偵に夏野方に侵入してもらうために予め購入したものである、(3)夏野方を訪れたのは、春山に会って事実を確認し、連れ戻すのが目的であって、包丁を持って行ったのも、その目的を邪魔する者を脅すためであり、被告人には夏野を殺害する気持はなかった、(4)被告人は、夏野と春山が同じベッドで寝ているのを見て逆上し、夏野と包丁の取り合いをしているうちに偶発的、突発的に殺意を抱いたに過ぎず、被告人には事前の確定的殺意はなかったと主張する。

そこで、所論(1)についてみるに、被告人は、一二月一八日に止宿先のホテルの従業員に夏野、小橋等五種類の苗字を書いたメモを見せて発音させたり、ひらがなで書かせたりしており、二一日夜には車で綾瀬へ行く道順を尋ね、地図を見ながら説明を受け、その結果を自らメモしている。また、二一日頃には従兄弟のBにコバシまたは夏野の電話番号を教えて、その所在地の調査を依頼し、本件の被害者である夏野歯科医院の所在地を教えてもらった。さらに、二一日には探偵の案内で夏野方前まで赴いている。この間二〇日には本件で使用した包丁を購入し、二二日には牛刀、ペンチ、針金など多数の物品を購入している。前記の手帳には、一八日の欄に「夏野歯科」との記載がある。このような一八日から二二日にかけての被告人の言動から考えると、被告人は既に一八日の段階で、その具体的な人物や所在地については把握していないものの、春山が夏野歯科という所に居るらしいとの情報を掴んでいたと認められる。二〇日には、本件凶器を購入しており、その対象者は春山と同居する男性という程度にしか具体化していないものの、既に被告人は、殺意を形成しており、その後の調査で二一日には本件夏野方に春山が居ることを確信し、殺害の対象者が夏野に絞られたと認められる。そうすると、被告人には、一八日から二一日にかけて、春山が男性の許に滞在しているとの認識が十分にあったと認めるのが相当である。

所論(2)についてみるに、被告人の供述する物品の購入目的が、その多くについて、捜査段階、原審公判段階、当審公判段階で、いろいろに変遷しており、その内容自体いかにも不自然であって、被告人の弁解は到底措信できない。殊に、弁護人は、当審の弁論において、二二日に牛刀を購入した目的について、針金切断用のはさみの代用物として購入したと主張するが、被告人は針金と同時にペンチも購入しているのであるから、はさみの代用物との弁解は採用できない。包丁については、被告人が本件犯行現場で夏野を殺害するために現に使用しており、他に合理的な購入目的も考えられず、本件で使用するための凶器として購入されたものと解するのが相当である。その他の針金等も、被告人が被害者方に赴く際に使用したレンタカーに準備していたのであるから、夏野方が施錠されている場合に備え、戸や窓をこじあけたりするための侵入道具として購入したものと解される。

所論(3)についてみるに、被告人が夏野方に赴いたのは人の寝静まっている午前三時頃であり、被告人は夏野らに無断で土足のまま二階の寝室に侵入しており、被害者らと話し合いをするために赴いた者のとる行動とは到底いえない。しかも、被告人は、被害者らに声をかけることもなく、寝室の灯りをつけるやいきなり包丁で夏野に対する攻撃を開始しているのであるから、被告人に夏野殺害の意思があったことは明らかである。同じ理由から、包丁を持って行ったのが脅すためであるとも認められない。

所論(4)についてみるに、前記のとおり、夏野は十数か所に及ぶ刺切創を負っており、夏野の受けた傷害は、被告人の供述するような包丁の取り合いで偶然に生じた傷害とは考えられず、被告人の強力な意図的刺突行為等により生じたことは明らかであり、防御創とみられるものは、左手に三か所位しか認められないことからしても、夏野は、被告人の先制攻撃を受け、殆どなす術もなく死に至らしめられたものと認められる。これに加え、前記の犯行に至る経緯及び犯行の準備状況からしても、被告人が偶発的、突発的に殺意を抱いたものでなく、確定的殺意を有していたことは明白である。

5  その他、所論に即し、逐一検討しても、被告人に確定的殺意を認めた原判決に事実誤認は認められない。論旨は理由がない。

二  春山良子に対する傷害について

論旨は、要するに、原判決は、春山の供述は信用できないとして、検察官が主張するような経緯で春山が傷害を負ったとは認められないとしながら、夏野に対する殺害行為の際に春山が負傷したか春山の承諾の下に被告人が春山に傷害を負わせたかのいずれかであるとして傷害を認定しているが、春山の供述の信用性を否定した以上、春山に対する傷害については犯罪の証明がないのであるから、原判決には事実の誤認があるというのである。

1  関係証拠によれば、春山の負った傷は、首の後ろの部分に長さ約一五センチメートル、深さ二、三センチメートルの切創及び左肩の後ろの部分に長さ約五センチメートル、深さ約〇・五センチメートルの逆「く」の字型の切創である。

これらの切創について、被告人は夏野との間でもみ合いとなっている間に生じたかもしれないと供述するが、春山を意図的に切りつけたことは明確に否定している。

これに対し、春山は、原審公判廷において、被告人が夏野ともみ合っている間にベッドから逃げ出し、二階の階段付近にいたところ、被告人に後ろから首の辺りを掴まれ、寝室に連れ戻された、被告人は夏野の背中を一回刺した後、私の襟首を掴んでベッドの方に引っ張った、私はベッドとサイドボードの間に後ずさりしたが、足の力が抜け、立ち膝になっているところを、被告人は、「相手(夏野)を殺してしまったから、あなたも一緒に殺す。」と言って、包丁を振ってきたので、避けようとして後ろに振り向いたところ首の後ろと左肩の後ろを切られた、切られた後は、その場に少しの間しゃがみこんだ、その後被告人をなだめて病院に連れて行ってもらった旨証言している。

この春山の証言について、原判決は、現場の状況と一致しない部分や、捜査段階の供述と重要な点で食い違う部分があり、内容自体不自然な点も多い上、捜査段階の供述相互間においても変遷している点が少なくなく、その供述態度も誠実さに欠ける嫌いがあって信用し難いと判示する。所論も、(1)春山は、血がわき出したとか、後ろの方がぽたぽたというような音がしたと供述しているのに、被害場所に全く血痕が認められないのは不自然である、(2)また、春山は切られた後数分間被告人と話をしたと供述するが、その間全く血が床上に落下しないのは通常あり得ない、(3)本件の凶器は営利な包丁であり、頭髪の一部が纏まって切断され、付近に落下するのが自然であるのに、被害現場には僅かな頭髪が一叢落ちているに過ぎない、(4)春山は、切られた後被告人が包丁をその場に捨てたと供述しているが、包丁は、ドアを入ってすぐの電話機の前で発見されているなど、春山の供述は、現場の状況と相容れず、信用できないと主張する。

2  まず、現場の状況及び本件現場に遺留されていた包丁等客観的証拠との関係を検討する。

関係証拠によれば、以下の事実が認められる。(一)本件包丁は、寝室東側のカラーボックス前に遺留されており、血痕と女性のものとみられる毛髪が付着していた。刃先部分の血痕は刃先から根元に向かって五センチメートル以上にわたり、峰に沿って一センチメートル前後の幅で擦ったように付着しており、その血液型はA型である。刃体の柄に近い部分にはかなりの血痕が認められ、その血液型はB型であり、根元にはA型とB型の両方の血痕が付着している。(二)寝室内の血痕付着状況は、ベッドの上に、夏野が死んでいた場所から壁に向けて大量のB型の血痕があり、サイドテーブル側にはマットに染みるほどのハート型の血痕をはじめとしていくつかの血痕があり、ハート型の血痕の血液型はA型である。ハート型の血痕の東側すぐ下の床上には一つまみの毛髪が落ちている。その他、この毛髪から数十センチメートル北寄りにある青色毛布の上、出入口に近い一面鏡付近の床上、ベッド脇のガラステーブル上の新聞紙、出入口ドアにも血痕の付着が認められる。(三)被告人は、右手小指に長さ一・六センチメートル、深さ三ミリメートル、左手中指に長さ二・六センチメートル、深さ一ミリメートルの切創を負い、かなりの出血があったと推定される。(四)夏野の血液型はB型、被告人及び春山の血液型はいずれもA型である。

そこで、これらの事実関係と春山証言の整合性を検討する。

まず、右(三)のとおり被告人の手からも出血していたことを考慮しても、それが包丁の刃先に付くことはほとんど考えられないから、前記(一)のように刃先にA型の血痕が認められることは、夏野に対する攻撃が終わった後に包丁で切られたという春山証言とよく符合するということができる。

次に、所論(1)(2)を含め、寝室内の血痕との関係をみると、確かに、春山の供述する被害場所の床には血痕は認められないし、右被害場所周辺の血痕の状況は、前記(二)のとおりである。ハート型の血痕がA型であるからといってそれが春山のものとは断定できないし、その余の血痕は血液型の鑑定に付されていないので、これまた春山のものとは断定できないが、仮にハート型の血痕が春山のものだとすると、春山の証言するように、受傷後春山がベッドのそばに少しの間しゃがみ込んでいたとすれば、右血痕の位置は血痕付着の可能な範囲内にある。もっとも、ハート型の血痕を含めて血痕の多くが春山のものであるとしても、血痕が少ない点が一応問題となる。しかし、最初に春山に応急処置をした医師は、春山の後頚部の切創も、頚動脈等の主要血管を切断するまでには至っておらず、傷口からの出血は徐々に流れ出すという感じで、首筋を伝って下に流れていた、肩の下辺りまであった髪の毛の内側部分には血液がずいぶん染み込んでおり、べっとりした感じで髪の先端部分が固まっている状態であったと診察している。また、春山の着用していたパジャマと下着には、大量の血痕が認められる。これらの点からすると、春山の供述する被害現場とその周辺に大量の血痕がなかったのもあながち不自然とはいえず、少なくとも、前記(二)の血痕の状況が春山の証言と矛盾するということはできない。

さらに、所論(3)を含めて、毛髪との関係をみると、包丁に女性のものとみられる毛髪が付着していたことは前記(一)のとおりであり、春山の供述する被害場所に一つまみとはいえ毛髪が落ちていたことは前記(二)のとおりであり、これらの事実は、春山の証言を裏づけている。もっとも、落ちていた髪の毛の量が少ない点が一応問題となる。しかし、後にみるように、春山は、警察官に対する供述調書において、正対した被告人が左手で春山の髪を掴み、右手の包丁を顔に近づけてきたので、反転して逃げようとした時に後頭部に激痛を感じたと供述しており、もしこのとおりの状況であったとすれば、被告人が左手で春山の髪を掴んだため、加害の時点では後頚部の髪はめくれていた可能性がある。また、春山の証言するとおり、後ろを振り向いたところを切りつけられたとすると、春山の首付近の髪の毛は固定されていたわけではないので、頭の動きと共に流れた可能性がある。さらに、包丁の刃には夏野の血や脂肪が付着して滑りやすくなっていたため、春山の髪の毛が包丁の刃先と共に流れた可能性もある。このようないくつかの可能性が考えられるので、纏まった毛髪が落ちていなかったからといって、春山の証言が現場の状況と合わないとはいえないと考えられる。

所論(4)についてみるに、春山は、被告人が包丁を捨てた際の被告人の位置については、ベッドのそばと供述しているが、被告人が真下に捨てたのか投げ捨てたのかどうかについては、記憶がないと供述しており、被告人のいたという場所と包丁の遺留場所とは一メートル強位しか離れていないことも考えると、この点についての春山の供述が現場の状況と合わないとはいえない。

加えて、春山は被告人に切りつけられる直前に被告人は夏野の背中を一回突き刺したと証言しているが、夏野の背部の多数の刺創の中には創洞の深さがかなりのものもあり、春山の供述を裏づけている。

このように、犯行現場、凶器等の客観的な状況は、春山の証言を補強するものはあっても、これと矛盾、抵触するものはないということができる。

3  次に、春山の供述の変遷及び供述内容の合理性等について検討する。

春山の捜査段階における供述内容をみるに、春山は、警察官に対する供述調書においては、台所に逃げ込もうとした時被告人に髪の毛の後ろを掴まれて捕まってしまった、被告人は、「あの人を殺した。お前も殺す。」と言い、私は助けて下さいと言った、被告人は、それを無視したように、正対した状態で左手で髪を掴み、右手の包丁を顔に近づけてきたので、反転して逃げようとした時に、後頭部次いで左肩辺りに激痛を感じた、手を後頭部に当ててみると血が多量に出ていた、その後病院に連れて行ってもらった旨供述している。

さらに、検察官に対する供述調書においては、二階廊下を階段近くまで逃げたが、被告人に髪を掴まれ、寝室に引き戻され、ベッドの脇の方に突き飛ばされた、被告人はまた夏野の体を突き刺し、「こいつを殺した。お前を殺す。」と言って喉元で包丁を左右に動かしたので、咄嗟に後ろを向いたが、後頭部と左肩をたて続けに切られた、血が流れた、その後病院へ連れて行ってもらった旨供述している。

このように、春山の警察官に対する供述調書においては被害現場が台所付近の廊下か寝室かについて明確な供述はないが、調書の最後の方では、被告人が病院に行こうと言った後に夏野の姿を見たらベッドの上にうつ伏せに倒れていたとの供述はある。検察官に対する供述調書の内容は、原審証言とほぼ同一である。被告人が春山に切りつける直前に夏野を刺したとの点については、警察官に対する供述調書では触れられておらず、検察官に対する供述調書及び原審公判において供述されたものであるが、警察で供述しなかった理由について、春山は、原審公判において、最初は被告人を庇う気持があったが、その後他の人から本件の前に被告人が女性と遊んでいるという話を聞き、夏野を可哀想に思うようになり、真実を話す心境になったと証言している。

これらの供述の経過をみると、被告人が夏野への攻撃後包丁で春山に切りつけたとの点においては、警察から原審公判に至るまで首尾一貫しており、被害状況についての供述内容には特段の変遷も認められない。春山の警察官に対する供述調書は、被害直後に病院で取調べを受けて作成された簡単なものであり、被害場所についての明確な供述がないのも不自然とまではいえず、その他の細かな点について供述がないのも同様に解される。捜査官は、本件の殺人事件と傷害事件を並行して捜査しており、その関心が主として重大事件である殺人事件に集中するのは当然であって、原判決のように捜査段階における供述相互間に変遷が認められると解するのは、相当ではなく、警察官に対する供述調書では簡略な内容であったものが、検察官に対する供述調書では、より詳細な供述となったに過ぎないとみるのが相当であり、全体的にみれば、警察官に対する供述調書は、その後の春山の供述と大きく食い違うものではない。また、春山に切りつける前に被告人が夏野の背中を刺したことを供述しなかった点についての春山の説明は、了解可能であり、警察官に対する供述調書においては、最初の夏野に対する攻撃についても明確には供述していないこととも符合するものということができる。また、春山の原審における証言態度は、原判決が判示するように、その一部に必ずしも誠実とはいえない場面のあったことは否定し難いが、子細に検討すれば、それらは春山と被告人との関係に関する部分か原審弁護人らの微にいり細にわたる反対尋問に対して投げやりな応答をしたとみられる部分であって、その他の被害状況等に関する部分については、四開廷にわたる反対尋問や裁判官の厳しい補充尋問に耐え、首尾一貫した供述をしている。そうすると、春山の原審証言は、少なくとも被害状況に関する限りは、その供述経過及び供述内容いずれにおいても、信用性に疑問を生じさせるような不自然、不合理なところは認められないということができる。

4  以上検討したところによると、被害状況に関する春山の原審証言は、客観的証拠とも抵触せず、その供述経過及び供述内容も特段不自然な点は認められず、その信用性は十分に認められる。原判決は、被告人の夏野に対する攻撃が非常に厳しく執拗であったことと、前記ハート型の血痕の存在を、春山の首の部分の傷が、被告人において夏野を攻撃している間に生じた可能性を完全には否定できない根拠としている。しかし、前者についてみれば、春山の証言するとおり、春山が被告人の夏野に対する攻撃のごく早い段階でベッドから逃げ出しているとすれば、攻撃が激しく執拗であったことは問題とならないし、後者についてみれば、ハート型の血痕は、位置的には、春山の供述する被害場所で受傷したとすると血痕の付着する範囲内にあり、春山の証言と符合しこそすれ矛盾するものではない。また、原判決は、犯行直後の被告人と春山との会話内容や、逮捕当時の被告人は春山が夏野から切りつけられたなどと供述していることなどを考え合わせると、犯跡隠蔽工作の一環として春山の同意を得て傷害が行われた疑いも完全には払拭できないとしている。しかし、春山の証言、被告人の供述その他の証拠を検討しても、少なくとも寝室を出るまでは、犯跡隠蔽工作を窺わせるものは見当たらないし、何よりも、一歩間違えば重大な結果を生ずるような傷害を被害者の同意を得て犯跡隠蔽のためにするとは考えられない。原判決が原判決のような認定をした理由について説示するところは、納得できるものではない。したがって、被告人は、春山が証言するとおり、夏野方二階寝室において、原判示包丁で、春山に切りつけ、原判示の傷害を負わせたものと認めるのが相当である。

5  原判決は、夏野に対する殺人行為の際の打撃の錯誤により春山に傷害(訴因が傷害であるため、その限度において)を負わせたか、春山の同意の下に傷害を負わせたかのいずれかであるとして、被告人は、夏野方二階において、春山の後頚部に切りつけて原判示傷害を負わせたとの事実を認定しており、その結論部分は、「夏野方二階において」が「夏野方二階寝室において」と場所的に若干限定されるほかは、当裁判所の認定と同一である。しかし、原判決の右認定は、被害状況に関する春山の原審証言の信用性の判断を誤った結果、故意の内容、犯行の態様、違法性の程度等の認定を誤ったものであり、事実認定の結論部分がほとんど同一であっても、原判決には、事実の誤認があると解するのが相当である。そして、そもそも原判決のしたような択一的認定が許されるかの問題は別としても、原判決の事実誤認は、事実の重要部分にわたるもので、適正な事実認定という観点から瑕疵が重大であるばかりでなく、少なくとも犯情に影響することは疑いないから、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認に当たると解される。

そうすると、春山に対する傷害については犯罪の証明がないという理由での事実誤認は認められないが、原判決が打撃の錯誤か同意傷害のいずれかであるとして春山に対する傷害の事実を認めたのは誤りであるという点は、所論のとおりであり、事実誤認の論旨は右の限度において理由がある。よって、控訴趣意中量刑不当の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。

第二  破棄自判

そこで、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄した上、同法四〇〇条ただし書により、当審において直ちに次のとおり自判する。

(罪となるべき事実)

「平成五年押第二九六号の1」とあるのを「当庁平成六年押第二三四号の1」と、「右夏野方二階において」とあるのを「右寝室において」とそれぞれ改めるほか、原判決が認定した「犯罪事実」と同一であるから、これを引用する。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)

「第一」を「原判示第一」と、「第二」を「原判示第二」とそれぞれ改めるほか、原判決の「法令の適用」と同一であるから、これを引用する。

(量刑の事情)

本件は、台湾で被告人と結婚した春山が家出をしたため、これを探し求めて来日した被告人が、春山が夏野と婚姻していることを知って、夏野に対する殺意を固め、深夜夏野方に押し入り、包丁で夏野を殺害し、さらに春山にも包丁で傷害を負わせたという事案である。まず、殺人についてみるに、被告人は、来日した春山を探し求め、同女が日本人男性と結婚していることを知るや逆上し、婚姻に至る事情を詮索したり、話合いの機会を探ることなく、いきなり相手方に対する殺意を固め、実行に移したものであり、その動機は、自己中心的というほかなく、強い非難に値する。しかも、被告人は、凶器や侵入道具等を購入し、動きやすい衣服に着替えるなどの周到な準備を重ねた上、犯行に及んでおり、本件は、極めて計画的な犯行である。さらに、その態様は、深夜被害者らの寝室にまで土足のまま侵入して敢行されたものであり、就寝中の夏野にいきなり包丁で襲いかかり、まず頚部を狙い、全身に多数の刺切創を負わせ、殊に頚部に対しては、首の周りをほとんど切り裂いてしまうほどの攻撃を加え、最後には背中に止めの一撃を加えるなど必殺の意図が如実に示されており、残忍極まりない。寝室及び遺体の惨状は目を覆うばかりであり、犯行の凄じさを物語っている。夏野は、春山と正式に婚姻していたのであるから、被告人の存在を知っていたとしても、落度があるとはいえない。自宅で就寝中、突然このような凶行に遭い、なす術もなく、ほぼ即死に近い状態でその生命を断たれた夏野の驚愕、無念さは察するに余りあり、働き盛りの息子を失った老齢の母親を始めとする遺族に与えた衝撃、悲しみも大きく、遺族の被害感情の強いのも当然である。夏野は、十数年来地域において歯科医師として活躍しており、地域社会に与えた影響も軽視し難い。被告人は、台湾において医師の資格を有する身でありながら、このような凶行に及んだばかりか、捜査、公判を通じて不合理な弁解に終始しており、真摯な反省のかけらも見られず、その責任回避の態度は容認し難い。傷害については、その部位が後頚部であり、一歩間違えば重大な結果を招来しかねないはなはだ危険な行為であった。これらの点からすると、被告人の刑事責任は極めて重いといわなければならない。

他方、被告人の父親は、息子の凶行に深く心を痛め、被告人に代って手厚く夏野を供養しているほか、遺族に対する慰藉に努め、原審段階において支払った一〇〇〇万円を含めて合計四五〇〇〇万円を支払い、漸く示談を成立させ、遺族の被害感情もある程度は融和されるに至ったと認められる。春山に対する関係では、同女には被告人と結婚していながら、夏野と婚姻した落度が認められる。その他、被告人には前科、前歴がないのは勿論、優秀な成績で学業を終え医師の資格も取っていたこと、被告人の友人、知人多数から嘆願書が提出されていることなど被告人に酌むべき事情も認められる。これらの事情を総合考慮すると、被告人を懲役一二年に処するのが相当である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 木谷明 裁判官 金山薫)

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